東京大学を卒業しましたが、

東京大学を卒業したけれど、「何者」にもなれず社会の中に埋もれきったアラサー女子の、現状への反省も込めた徒然記です。

大学で文系学問を学ぶ意味って何だろう?

「モノ」や「サービス」を生み出せない知識・知的活動(=文系学問)には何の意味があるのだろう。

 

かねてからの疑問です。
これは、高校生までは単に「数学ができない」コンプレックスに還元されていましたが、社会人になってからは、「モノ」を生み出せるか否かは絶対的な差であるように感じています。

 

【「モノ」や「サービス」を供する知的活動は「説得力」がある】

「何にでも変化する細胞がある」

数十年前にそんなことを言ったら、冗談を言っているのか頭がおかしいと思われたと思います。
しかし、iPS細胞がつくられてからは、そう思われることはなくなりました。

 

「PC画面上の文章を外国にいる人のPCに瞬時に送ることができる」

私が子どもの頃だったら、「ドラえもんの新しい秘密道具?」というレベルの話です。
しかし、これを実現しているE-mailは、現在ではインフラと言っても過言ではありません。

 

現にモノやサービスを作り出すことができる知識・知的活動には「絶対的」とも言える「強さ」があります。
現にモノやサービスを供されてしまったら、私たちは、それを無視したり否定することはできません。

 

しかし、モノやサービスの形を取らない言論はそうではありません。

 

例えば、官僚に関する本によると、少なくとも現在の官僚制度は何らかの改善が必要だという見解で、どの著者も一致しています。
そして、元経産官僚の古賀氏は、官僚制度の具体的な改善案を提案しています(※1)。

しかし、やはり「モノ」や「サービス」が存在しないためか、官僚批判が加熱すれば一時的に話題になりはするものの、古賀氏がいくら主張をしても現状、官僚制度が変更される気配すらありません。
(ちょっとした制度改善は毎年なされているのでしょうが)

 

【「モノ」や「サービス」の提供に直結しない学問の意義は?】

結局、現に「モノ」や「サービス」として提供され得ないものは、現代社会において、真に影響を与えうるものとならいのではないか。

 

もちろん、この考えに対しては、「思想が持つ影響力」の観点からの反論があると思います。

確かに、マルクスの思想はソビエト連邦という国家の成立に多大な影響を与えており、現に「モノ」や「サービス」を供してはいないけれど、世界に大きなインパクトを与えました。
しかし、「大きな物語の終焉」と言われる現代において、世界を巻き込むような思想が成立し得うるのかどうか、甚だ疑問です。

 

先日、「官僚批判の論理と心理」(※2)を読みましたが、ウェーバーにしろハーバーマスにしろ、彼らは偉大な思想家で今でも研究がなされるほどの存在ではあるけれど、彼らにビル・ゲイツほどの影響力があるとは思えません。
アップル社がなかったら、社会は今より不便だっただろうと思えるけれど、ウェーバーハーバーマスがいなかったとしても、私たちの生活はきっと今と何も変わらない気がします。

 

そうすると、大学における文系教育の意義とは何なのでしょうか。

 

弁護士や会計士など、ルールと制度が確立していて、その中で処理すべき事案が多い職業のための教育は必要だと思います。
しかし、それは「大学教育」ではなく「職業教育」です。

 

 

東京大学の文系学部の教員は、自分たちの存在意義及び文系学部で行っている教育の意義をどう説明しているのでしょうか。

 

ちなみに、東京大学で文系分野を学んだ意義について卒業生として言えることは、

「東大の入試を突破することができたのでバカではないです!」という最低限の学力証明以上の意義を感じたことは…たぶんないかな…

 

東大は好きだし大学生活は楽しかったけれど、今の自分の在り方はすごく嫌です。
何にもできない。

 

結局私は、自分が大学で学んだ意義を教えてくださいと言っているにすぎないのかもしれません…
でも、どんなに考えても今の私にはよくわからなくて…

 

「モノ」を生み出せない文系学問って、何の意味があるのでしょう…?

 

 

※1「官僚を国民のために働かせる法」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、

※2「官僚批判の論理と心理」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、

 

 

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今から大学で学び直したい?学ぶことの意味について考える。 - 東京大学を卒業しましたが、