東京大学を卒業しましたが、

東京大学を卒業したけれど、「何者」にもなれず社会の中に埋もれきったアラサー女子の、現状への反省も込めた徒然記です。

匿名であるということ。

 

東京大学を卒業したけれど『何者』にもなれない自分」

このブログを始めた当初、たぶん、私はそんな自分にコンプレックスというか、情けなさのようなものを感じていたように思います。
弁護士になった友人、国家公務員になった友人、外資コンサルティング会社に就職した友人etc。

そんな友人たちと比べて、私はとってもちっぽけな存在で、広い社会の中で「匿名の個人」として埋没していく自分。
社会に対していい意味でも悪い意味でも何もできないし、貢献なんて全くできない自分に情けなさや悲しさ、もどかしさのようなものを感じていた気がします。

でも、最近、そんな自分もいいのかな、と思うようになってきました。

「匿名の個人」でちっぽけな存在だから、ある意味自由に、そしてある意味無責任に行動ができる。
それも悪くない。


以前、某省の大臣が過去の発言を公衆の面前で正されていました。

政治家は、自分の思想信条を有権者が投票する際の検討材料の一つとして提示しているので、過去の発言について問われることはやむを得ないのかもしれません。
でも、以前にも言いましたが(※1)、人間は時とともに考え方は変わるものだと私は思っています。
また、知識が増えたり思慮深くなれたり(?)すると、過去の発言を撤回したくなることも当然あるものと思います。


物の見方が変わる、価値観が変わる、「それが人間だもの」、と私は思ってしまいます。

(先日も書きましたが(※1)、このブログの過去の記事の中には消したいものもあります)

などという「適当」なことを私がブログに書いたからといって、当たり前ですが、日本も世界も変わりません。
それは私が広い社会の中で埋没している「匿名の個人」だからです。
逆に、自分がツイッタ―で何かつぶやいた瞬間、世界がざわめきどこかで何かが大きく変わってしまうかもしれない事態など、とても恐ろしくて耐えられないと思ってしまいます。

 


【「匿名の個人でいい」。でも、悩む。】

 

私は尖っていたいし、世の中や世界に悪態もつきたいし批判もしたいです。
でも、とっても小心者です。
そんな私には「匿名の個人」が向いているような気がしてきました。


そして、全くの見当はずれかもしれませんが、先日AIに関する本(※2)を読んでいる中で、結局、「今、現在」個人として名前が挙げられているような著名なAI研究者の方々は、表に出ることもなく陰で地道に研究を続けていた多くの研究者の支えの上に「第一人者」として名前が挙げられているのだな、と思いを馳せたら、私も「そんな存在」になれるのであれば自分を卑下することもないのかな、と思いました。
少しだけ、胸のつっかえが取れた気がしました。

と、言ってはみるものの、「何だかな…」と思う自分もまだいます。


社会の中で「中堅」と呼ばれるようになってきたアラサーの今日この頃。
遅まきながら、20代半ばまでの「私」という「個」についてだけ考えればいいのではなく、「社会の中での役割」についても少しだけ目を向けられるようになってきました。
「そのせいで」とは言いませんが、より一層、迷走を深めているような気がしています。

でも、それもきっと悪いことではない!


最近、職場で後輩を見ながら、「私は何かあっても泣いて許される年ではないな」と思ったところですが、それでもまだまだ若輩者としてじたばたしている私のことも見守ってもらえるとうれしいです。
でも、アラサーはおばさんだからな…

そして、念のため。
「『泣いたことによって許してもらえたこと』は子どものころにはあったのかな?」という程度の記憶しかありません。


今日も徒然とつまらない記事を失礼いたしました。

 

※1もう一度。 - 東京大学を卒業しましたが、

※2「人工知能は人間を超えるか」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、