継続することと仕事と子育てについての雑感。
今日は、眠れなかった夜中に心に浮かんだよしなし事をそこはかとなく書いてみたいと思います。
以下、駄文を失礼いたします。
【「継続」が難しいことについて】
最近、何かを継続して頑張り続けることができなくなったと感じることが増えた気がします。
上述の「継続」は2つの意味で使っています。
ひとつは、時間としての継続です。
単に「切迫感を持って頑張らなくてはいけないものがない」というだけのことかもしれませんが、アラサーになったころから集中力の低下を感じることが増えた気がします。
年齢と集中力、何か関係があるのでしょうか…?
もうひとつは、期間としての継続です。
人によるとは思いますが、私は「仕事は仕事」と割り切って生活をしてるので、家に帰ってきてまで仕事をすることはありません。
一方で、高校(大学?)生の頃までは、学校から帰ってきて家でぼんやりとテレビを見ていたとしても、一定の時間になれば自分の部屋に行って勉強をしていました。
今となっては懐かしい思い出です…
アラサーになった最近は、仕事のように「これをやりなさい」と言われたことはやれますが、勉強のように自発的にずっと何かを続けていくことはすごく難しい気がしています。
どうして、昔、あんなにも長時間・長期間にわたり「勉強」をし続けることができたのか、自分でも不思議です。
しかしながら、一般論として、自発的に何か一つのことを長時間・長期にわたって続けられる人は大勢いらっしゃるものなのでしょうか?
作家の朝井リョウさんは、5歳のころから「書く」ということを続けてきたそうです。
約20年、定期的に何かを書き続けているのかと思うと…
感心してしまいます。
【「継続」したことが最期に寂しさを埋めてくれる気がすることについて】
上述のように何かを継続することは難しいと考える一方で、「何か継続的に取組むものがほしい、何かを頑張り続けていたい」という思いがあります。
そうしないと、死を前にしたとき、「自分の人生、何もなかった」という虚しさに襲われるのではないかという漠然とした不安あります。
「継続」について考えたついでに、人間の寿命についても考えてみました。
2013年の日本人女性の平均寿命は86歳らしいです(※1)。
つまり、普通に考えれば、私もあと50年以上は生きられるようです。
「あと、50年も生きられるのか」と思うとすごく長い気がしますが、でも、「あと50年で何ができるのだろう?」と考えると心もとない気持ちになります。
アラサーにもなってこんなブログを書いている私には、どんなに長生きをしたところで歴史に残るような偉業を成し遂げられる日はほぼ確実に来ません。
でも、死を前にしたとき、「私の人生、何もなかった」と思うのはどうしようもなく寂しい気がしてしまいます。
死を前にして自分のそれまでの人生を肯定してくれるような「何か」は、そもそもどのようなものであればいいのか、どうしたら手に入れられるかわかりません。
しかし、自分が「頑張った」「そのために尽くした(=投資した)」ものであれば、何かしら「支えのようなもの」にはなるのではないかという気がします。
実際、苦労して手に入れたものは、たとえ、手に入ったものが些細なものであったとしても相応の思い入れを持つことができる場合が多いと思います。
そうすると、自分が努力し続けられるものがあるのか…
うーん…
このように考えてみると、仕事や子育ては、継続を意識しなくても努力をし続けること(=時間的・心理的投資をすること)ができる仕組みである上に、目に見える結果がそれなりに返ってくる、すごく「いいもの」なのではないかという気がしてきました。
「何のためにそれをするのか」という理由も、それなりに外的に与えられるし…
50年も先のことなど考えても仕方がないのかもしれませんが、夜の闇に押されて徒然と考えてみました。
何の根拠もない、つまらない話を失礼いたしました。