東京大学を卒業しましたが、

東京大学を卒業したけれど、「何者」にもなれず社会の中に埋もれきったアラサー女子の、現状への反省も込めた徒然記です。

「教養」によって高学歴者の信頼回復を図ることはできないか。②

先日書いた、「教養を通じて高学歴者の信頼回復を図る」という考え(※1)は、完全な私の妄想です。
でも、たとえ妄想でも、妄想なりの根拠もどきの補足をしてみたいと思います。


妄想内容は以下のとおりです。
 望むと望まざるに関わらず、「高学歴」とラベリングされてしまう一人一人が、幅広い知識のもと、異なる専門分野を総合した「知」を通して、現実社会(科学を含む)を見て、考えて、(わかりやすい)言葉にすることによって、高学歴者の信頼回復を図る。


【歴史は繰り返す~「知」は大学の外へ】

大学は12世紀頃成立しますが、17~18世紀になると、印刷技術の発明や宗教改革人文主義や科学革命への対応の遅れなどにより、知の最前線ではなくなります。
そして、保守的かつ権威的な大学に代わるものとして、アカデミーが成立します。(※2)

このような大学を取り巻く状況は、現代社会における大学を取り巻く状況と似ています。


最近の大学が保守的・権威的であることは言うまでもなく、加えて、ハーバード大学などによるMOOCsの動き(※3)や論文以外の形で大学教員の文章を目にする機会も増えました。
また、大学教員ではない知識人(専門家)による文章もタダでネットの中にあふれています。

 

このような状況から、名前はないけれど「高学歴」である人たちが、社会に発信し、それが受容される素地が準備されつつあると言うことができると思います。


また、「社会が大きく変わろうとしている!」ということが言われて久しいですが、今の時代はかつてのアカデミーのように「知」や「学」が大学の外に出ていく時なのかもしれません。
歴史は繰り返す、です。


【「教養」を担う特定の階層】

一方、教養は時代によって指す内容が異なり、一義的な定義はありません。(※4)
しかし、共通事項として、「特定の階層が担っていた」ということが言えます。


そもそもの教養は、「文化的資本を身につけた紳士」に求められます。
すなわち、教養は、武士の武士道ならぬ、西洋紳士の武士道であり、上流階級という階層が担っていたものです。(※4)

一方、日本の明治期に栄えた「哲学・歴史・文学の読書を中心とした人格の完成を目指す態度」である教養主義の担い手は、当時のエリートの卵である旧制高校の生徒でした。(※4)


このように、教養とは特定の階層によって担われるものです。
そして、私の妄想における教養も、これまでと同様、特定の階層が担うことになります。


現代において、幅広い知識を身につけ、思考するために必要な力を持った人というのは、それなりの教育投資を受けてきた一種(特定)の「階層に属する者」です。

また、多忙な現実世界において、新たな知識を身につけたり、考えたりする時間のある人も一種(特定)の「階層に属する者」です。

加えて言えば、空いた時間を「教養」に使おうとすること自体、ある意味特殊な人なのかもしれない、という意味でも…

 

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私は勉強が好きです。
何度も言っていますが、新しいことを学んだり、できるようになったり、わかったりする経験がたまらなく好きです。


でも、時々「こんな役に立たないこと、何でやっているんだろう」と素朴に悲しくなります。

 

好きなことをしてると言えばそうなのですが、やはり「学問」が持つ性質なのか、それを役立てたい、現実生活の中で使いたいという気持ちはあります。
なので、個人的に、この妄想は結構気に入っています。


それに、ここでの「教養」が目指すものは、単なる知識の詰め込みだけではできないものなので、とっても21世紀的な「知の在り方」でかっこいいです(笑)


こんな妄想が少しでも現実に近づいたらいいなと、たくさんの人に埋没した匿名の個人として祈っています。

 

 

それにしても、何でこんなに説明が下手なんだろう…
もっと書きたいこともあったのに…

自分の頭の中にあることを誰かに伝わるように説明することは本当に難しいです。

 

 

 

※1「教養」によって高学歴者の信頼回復を図ることはできないか。 - 東京大学を卒業しましたが、

※2「大学とは何か」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、

※3JMOOCと高等教育-高校までの「学び」と変わらない高等教育 - 東京大学を卒業しましたが、

※4「教養主義の没落」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、