「教養」によって高学歴者の信頼回復を図ることはできないか。
今日は妄想を語ってみたいと思います。
以前、単なる学歴(及び学歴社会)否定の先に「良い未来」はないのではないか、ということを書きました(※1)。
昨今の状況を鑑みるに、高学歴者が否定されるのはある意味やむを得ません。。
しかし、このままでいいとも思いません。
なので、「教養」という観点から、高学歴者の信頼の回復を図れないか、ということについて妄想をしてみたいと思います。
前提として、「教養」が指す内容は時代によって異なり、一義的な定義がないことを確認しておきます(※2)。
【学問の役割、「学」を有する者の役割】
学問とは、現実社会を見るためのフレームワークだと私は認識しています。
人文社会学がそうであることは当然として、法学や経済学も、その学問を通して現実社会における法の解釈を考えたり経済状況の推移を予測したり政策を考えたりしています。
学問をフレームワークと解することも、学問に関する多様な解釈の一つであると言えます。
以下、この解釈に沿って話を進めます。
学問が現実社会を見るためのフレームワークであるとすれば、「学」を有する者は、それを用いて、現実社会を解釈することがその役割です。
しかし、大学教授など、「学」を有するとされる代表的な職業の人たちが、そもそも何をしているのか、私たちに何を提供してくれているのかいまいちよくわかりません。
これでは、「持つ者」としての責任を果たしていない(※3)どころか、公金を使う者としての責任も果たしていません。
一方で、私たち一般市民は、「知」を通じて現代社会を説明してもらうことを求めています。
それは、池上彰氏や林先生の最近の活躍からも明らかです。
私が子どもだった頃に比べると、ニュースを解説する番組や社会について学ぶ番組が増えたように感じます。
しかし、「知」を通して見るべきものは、現実社会だけではありません。
科学も対象となります。
このことについて、スタロバンスキー教授の言葉を引用します(※4)。
「科学そのものは自らを説明することはありません。科学は私たちにいわば武器を提供し、道具を提供し、結論はしかじかであるとは説明します。それを考察し、解釈するのは人文学の役目です。人文学は、科学が自分では与えることができない正当化を、科学に代わって科学に与えるのです。」
【「学」を有する者に求められること=駒場の教養教育】
このように考えると、現代社会において「学」を有する者は、幅広い知識のもと、それを総合し、現実社会や科学を見て、考え、自分の言葉で説明することが「果たすべきこと」であると言えます。
そして、このことは、東大ではだいぶ形骸化してしまっていますが、一般教養教育の趣旨とほぼ同じと言えます。
一般教養教育は、戦後の教育改革時の東大総長・南原繁氏の考えによるそうです。
つまり、南原氏は専門科学の分断的な発展を大学の危機と捉え、「異なる専門分野を総合する力」をつけることを意図していたそうです(※5)。
以前書いた「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の例で言えば(※6、7)、「知」を通して現実社会を見るためには、法律の知識を持っているだけでは十分ではありません。
この問題については、世界史や日本史の知識、安全保障に関する知識など多様かつ幅広い知識を総合して考える必要があります。
そして、あの記事に書いたことも、ある意味「知」を通して現実社会を見ることの一例と言えると思います。
…もっとかっこいい例を出せればいいのですが。。
自分に力がなく、我ながら残念です。
でも、「教養」を通して現実社会を見ることは、変に気合いを入れたりかしこまらなくてもできると言えるかと思います。
このようなことを、大学教授などの特権階級者ではなく、社会の中にたくさんいるはずの、望む望まざるに関わらず「高学歴」というラベルを貼られてしまう人、一人一人が積み重ねていったら、高学歴者への信頼を回復していくことに…つながらないでしょうか?
やっぱり、私の妄想にしかならないでしょうか。
※1受験競争、学歴(社会)の否定のその先にあるもの…? - 東京大学を卒業しましたが、
※2「大学とは何か」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、
※3ノブレス・オブリージュ。「持つ者」としての責任。 - 東京大学を卒業しましたが、
※4「エリートのつくり方」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、
※5「教養主義の没落」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、
※6詰め込み教育の何が悪い?~詰め込み教育だって、役に立ちます! - 東京大学を卒業しましたが、
※7何で誰も容易に変更できる「憲法解釈」をもとにした政策決定はおかしいって言わないの? - 東京大学を卒業しましたが、