東京大学を卒業しましたが、

東京大学を卒業したけれど、「何者」にもなれず社会の中に埋もれきったアラサー女子の、現状への反省も込めた徒然記です。

受験競争、学歴(社会)の否定のその先にあるもの…?

人間、やっぱり考えること、思うことに矛盾が生じることがあります。
以前書いたことと、違うことになる気がしますが…

でも、やっぱり、言いたいことは言いたい!

ということで、書いてみようと思います。

 

以下、親の収入などと学歴の相関関係については、ひとまず忘れて読んでください。
(この点については、もう少し勉強をしてから考えたいと思います)

 

東京大学を卒業したからって…】

以前、高学歴者=「持つ者」はノブレス・オブリージュ、持つ者としての責任を果たすべき、ということを書きました(※1)。
その思いは今も変わらないのですが…

でも、どこか理不尽な気がするな、というもやもやした思いがあります。

 

私は東京大学を卒業しました。
世の中を広く見渡せば、「知識」を多く持っている部類に入ると思います。
そして、知識がない人よりもある人のほうが、社会に貢献できる可能性が高いと言えます。
(それが、知識基盤社会です。)


でも、私は何もせずに知識を身につけられたわけではないし、それなりの対価を払っています。

しかも、「ぶっちゃけ、東京大学を卒業したからって、メリットもないし、それどころか、肩身が狭いことだって多いし…」と、不満がないわけでもないです。
さらには、学歴批判や学歴ロンダ問題など、これまで積み重ねてきた努力を社会の中で否定されると悲しくなります。


自分で言ったことに反しますが、「何で知識があるからって、それだけで世の中のためにって思わなくちゃいけないんだろう」、と、思ってしまいます。


でも、これっておかしな気持ちなのでしょうか??

 

貴族は、その地位は世襲され、加えてその地位に由来する特権やメリットを得ていました。
貴族として生まれた者は何の努力をしなくても、「貴族」であることの恩恵にあずかれます。
さらには、実際の感情はともかく、社会の中で一定の承認を得られ、敬意も払われます。

 

それに比べて学歴なんて…

 


ノブレス・オブリージュもgive and take】

人間、否定ばかりされていたら気持ちよく「他人のために」とか、「社会のために」と思えなくなるのは仕方がない、と思うのは言い訳でしょうか?
東京大学を卒業したところで、所詮普通の人間です。
その時々の都合に合わせて、学歴批判をされたり、一方では(学歴があるんだから)社会のために役に立てと言われたり…
そんな風に振り回されると嫌な気持ちになります。

もちろん、高学歴者たちが汚いことをして甘い汁を吸っていたりするから仕方がない部分もあることはわかっています。

でも…

 

旧帝大生が責任感を持っていたり、かつての政治家や官僚が使命感を持っていたりしたのは、その存在が「特別」だと承認されていたり、尊敬される風土があったからだという指摘はもっともだと思います。(※2)
そういった、社会的な承認が高学歴者のモラルを支えていた部分は間違いなくあると思います。

 

昨今、研究不正問題など、高学歴者(?)への不信が高まるような事件が相次いでいる中、このようなことを言うのも説得力に欠けますが…


いえ、こんな状況だからこそ!


これから先、受験競争や学歴(学歴社会?)を単に否定するだけでは、社会にメリットをもたらさないような気がします。
「受験競争、学歴(社会)の否定」のその先の社会を考えてみる必要があると思います。

 

 

と、何となくそれらしいことを書いてみましたが。
すべては私の戯れ言です。
つまらないことにお時間を使わせてしまいました。
申し訳ありませんでした。。

 

 

※1ノブレス・オブリージュ。「持つ者」としての責任。 - 東京大学を卒業しましたが、

※2「官僚がバカになったから日本は『没落』したのか」を読みました。 - 東京大学を卒業しましたが、

 

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「教養」によって高学歴者の信頼回復を図ることはできないか。 - 東京大学を卒業しましたが、