東京大学を卒業しましたが、

東京大学を卒業したけれど、「何者」にもなれず社会の中に埋もれきったアラサー女子の、現状への反省も込めた徒然記です。

理不尽に耐えるためには、考えることを放棄する?

先日、大学時代の友人と「(職場環境への)適応」についての話をしていました。
そのときの話が何かに活かせそうで活かせない…

とりあえず、ブログに書いてみることにします。


就職したばかりのころ、「上司より先に帰ってはいけない」、「周りが残っているから帰りにくい」といった付き合い残業に対する不満を口にしていた同僚がそれなりにいました。
でも、社会人になって数年が経った今、気づけば多くの同僚が付き合い残業の圧力をかける側になっています。
でも、私とその友人は、いまだに「付き合い残業」という日本の企業によくある文化に馴染めずにいます。


私たちは、

  • 付き合い残業など、日本社会にそれなりに残っている風潮に馴染めないのは、自分たちが社会不適応者だからなのか
  • どうして多くの同僚は付き合い残業文化に馴染めたのに、私たちは馴染めなかったのか

ということについて、結構真剣に考えました。


これまでも私とその友人は、会うたびに、旧態依然とした組織の体質について、半分はグチ、半分は「もっと~したほうがいいのに」という話を真面目にしてきました。
ずっと、自分たちが置かれている環境に対して疑問を投げかけ続けてきました。
そして、疑問を明確に意識し続けている以上、その対象に馴染むことはできません。
つまり、適応できませんでした。

でも、結局、考えても疑問を投げかけ続けても環境は変わらず、自分が苦しくなるだけでした。

友人が、「本当に帰れなかった時期は、朝出勤してからは、ロボットになったつもりでいた。がんばってもがんばらなくても、真面目にやってもやらなくても結局帰れないんだもん」と言っていました。


長々と話した結論は、環境に適応する一番簡単な方法は「考えるのをやめること」でした。
何かに対して「おかしい」「無駄だ」「もっとこうした方がいいのに」などと考えることが適応を邪魔している、という結論です。

でも、自分が置かれた環境に対して、考えることを放棄する人間が、仕事において十全に考えることができるのでしょうか。
本当にクリエイティブな仕事ができるのでしょうか。


資本主義とは、使用者が労働する場所と資源を提供し、労働者は労働力と時間を提供する対価として賃金を得ます。
(と、昔学校で習いました)

世の中には、働くことそれ自体に価値を見いだして、対価(ここでは賃金に限らずもっと広い意味で)に全くこだわらない人もいます。
ブラック企業でも苦痛を感じずに、働き続けることができる人だって当然いるとは思います。


でも、自分が提供している時間や労働力への対価について程度の差こそあれ気になる方が普通だと思います。

置かれた環境に疑問を持たず、あるいは考えることを放棄し、言われたことを黙々とやる人は…
本当にいいアウトプットを出せるのでしょうか?



日本社会は、同調圧力が強かったり、出る杭は打たれたり、評価基準が曖昧だったりするせいか、長時間労働が美徳とされていたり、先日紹介した日野氏の記事にあるような、従業員としての給与しか支払われていないのに「経営者の立場で考えろ」と言われるなど、理不尽でおかしなことが多い気がします。
しかし、現状の社会における理不尽さを前にしたとき、考えることを放棄してしまうことがベストな選択となってしまうのだとすると、それは、企業、日本社会の競争力として望ましい結果をもたらすのでしょうか。

もちろん、私は「NO!」と言いたくてこんなことを書いているのですが。


何が言いたいのかよくわかりませんが、とりあえず備忘録も兼ねて書いてみました。