東京大学を卒業しましたが、

東京大学を卒業したけれど、「何者」にもなれず社会の中に埋もれきったアラサー女子の、現状への反省も込めた徒然記です。

目に見える「モノ」にならない「言論」の価値について

私は、学歴や知識etcを「持つ者」として何ができるのか。
それが、ここ数日の私の課題です。

こういうことを言うと、NPO社会起業家の門を叩くことを勧められそうですが、こんなブログを書いているヘタレな私には、そんな勇気はありません。
そして、何か一つの価値観に自分の全てを投じる勇気もありません。
ごめんなさい。



「持つ者」は、「持つ者」としてその責任を果たすべきだと考えると、東大生に国家公務員を選ぶ人が多かった理由が何となくわかる気がします。

「難しい試験があって、それを突破した者のみが、国家のために働く公務員になれる」というシステムは、自分が「持つ者」であることを証明してくれるとともに「持つ者」としての責任を果たせそうな期待を抱かせてくれます。

だからといって、今さら国家公務員試験を受けるつもりは全くありません。年齢制限もあるし。



先日、「あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください」の著者・日野瑛太郎さんの記事を読みました(※1)。

この記事は、私の解釈ですが、従業員に「経営者目線を持て」という経営陣のずる賢さを白日の下に引きずり出す、といのが主な内容です。
日常生活の中には、それらしい言葉に包まれた理不尽がたくさんあります。

日野氏のように、そのきれいな外見を剥いで「真実」を見せ、社会の支配者層から身を守るすべを提案することは大事なことだと思います。
(この時代においても、労働者は使用者から搾取をされているんですね…)


でも…
本当は、一人一人が自衛をするという消極的な解決策ではなく、日野氏の記事で言えば、経営者が「経営者目線を持てと従業員に言うことは会社としてデメリットがあるからやめよう」と思うような、組織のあり方を変えるような提案が書かれていたらいいのにな、と思います。
せっかく、本を出して注目される立場にあるのにもったいない…と思ってしまいます。



でも、仮にそういう、社会が変わるような「提案」ができたとして、具現化された「モノ」ではない「言論」はどのくらいの価値を持つのでしょうか。

先日、スタンフォード大学のd.schoolの話を書きました(※2)が、彼らは、目に見えない「論」を展開するだけでなく、実際に製品を作り出しているから「すごい!!」と思えるし、成功しているのだと思います。
できあがった製品があると、説得力や訴求力が違うと思います。


でも、世の中には、目に見えるアウトプットにはあまり着目せず、目に見えない「論」を展開することが好きな人が非常に多いと思います。
やたらと「勉強会」を開催する人が多い印象があります。
そして、私は「勉強会」が嫌いです。

私の個人的な意見ですが、勉強会のアウトプットが何なのかわかりません。

確かに勉強会に参加をすると、「へー」と思うことも多く非常におもしろいのですが、でも結局、参加者の「へー、おもしろかった」で終わってしまいます。



ブログを書いていている人間はこんなことを言う立場にないことは重々承知していますが…
実際の製品や行動に結びつかない文章(報告書)の作成が、アウトプットであるとは、私自身は思えません。

とはいえ、私は何か製品を生み出すような技術は持っていません。
何もできないんです、ごめんなさい。


でも、行動に結びつくような文章をまとめる(社会システムに踏み込めるような提案を含む)ことくらいできるかな…
せめて、そのうち…いつか、自分が何か行動をとることに結びつくような「文章」を生み出したいと思います。



大しておもしろいネタも提供できず、大した結論にも達していないのに、つまんない記事を書いてしまいました。
やっぱり、ごめんなさい。。

 

※1従業員に「経営者目線を持て」という謎の要求 | あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。 | 東洋経済オンライン | 新世代リーダーのためのビジネスサイト

※2ノブレス・オブリージュ。「持つ者」としての責任。 - 東京大学を卒業しましたが、